ロミオとジュリエット(原作)/善光寺の謎/イムリ/モオツァルト・無常という事/合唱もろもろ

読了報告ですがこの統一性のなさ。

私がこうやって誰が読むか気にもせず感想文を書くのは、読みっ放しじゃそのまま漏れていってしまうから。
本を読んだ時、向き合った時間に何を感じたのかを留めておきたいから。
更に勧められて読んだりした時に「楽しかった」しか言えない読書なんてしなきゃいいと思うから、「どう感じたのか」をもう一回練り直すためにも(自分のために)書いていっているわけで。

■ロミオとジュリエット
romeo_and_juliet
http://www.amazon.co.jp/dp/4102020012

今まで翻訳の重要性を気にした事が全くなかったので、そういった観点から新たな視点を見出せた事に感謝できました。
というポジティブな受け止め方を。
リンクのAmazonにも結構書かれておりますがこの翻訳がかなり癖があるようでして。そもそもの話のあらすじは知っていたものの、正直品のなさに幻滅でした。シェイクスピアが書いたロミオとジュリエット、その二人を取り巻く環境はもっとこんな俗っぽくなかったんだろうと思います。もうしょっぱなから大爆笑してしまったんだけど、私たち合唱が歌う「プロローグ」は(オペラでは冒頭の解説部分を私たちが歌います)まるで寅さんの口上みたいだし、14世紀のイタリアにべらんめぇのマキューシオも南無三とかいうロミオもいないっつーの。
という昭和のチャンバラ要素満載の翻訳は置いておいて「話」の方にフォーカスしますが…これもまた私には理解しがたいものでした。
悲恋というものが理解できないからロミオにもジュリエットにも感情移入どころか理解不能で。更にジュリエット14歳だっけ?とロミオ17歳というまだ子供(現代では子ども扱いだけど、14世紀ではもうオトナだったのかもしれないけどさ…)がたかだか数日で死んじゃう話って単に勘違い続きだっただけじゃないの?って思ってしまう。私には理解できん。悲恋というよりもロミオのバカさ加減がクローズアップされているようで、なんだか別の意味でかわいそうな話でした。
読んでしまったのでもう仕方ないけど、フランス語の美しい歌詞(の直訳)をしっかり身体に沁み込ませてジュリエットの美しさと悲しみだけを表現できるように頑張りたいと思います。曲、キレイだし。

■善光寺の謎
zenkojinonazo
http://www.amazon.co.jp/dp/4396314779

善光寺行きたくなりました。
まだ行った事ないので。そういう意味でも、先に読めたのはとても嬉しい。「あーーー!!!行ったのにそれ気付かなかった!!!」ってのがなくて済むはずだしね。
宮元健治氏の著書は何冊か読んでいますがこれはきっと書かれた年代古いのかなぁと思ったり(あとがき読んでないので未確認ですが)した理由というのが、ちょっと浅いというか「善光寺中心」過ぎるかなーって思ったところから。といいつつも私自身も『北斗七星』『北』『金属』『秦』って単語が出て来ただけで「こりゃ妙見くるか」とか思ってる辺りそういう色眼鏡で見てしまっているけどね。この本の中には出て来なかったけど、妙見。おっかしいなぁ。
で、やっぱり謎なのが鹿島―諏訪ライン。タケミカヅチから「逃げた」 タケミナカタがなぜつながるのかというところ。逃げるというのは主体的だと思うんだけど、ラインが繋がってしまったら逃げたのではなく追いつめた、んじゃないかなぁと。従属的で。言い回しの違いについて執拗になり過ぎかもしれないんだけど、タケミナカタが自発的に選んだ土地じゃないように見えてくるのよね。家猫が家出してしまった時に、外猫らの縄張りを避けているとどんどん家から離れてしまって帰れなくなってしまう…という事がよくあるんだけど、どうもタケミナカタはその土地を目指したのではなく、結局たどり着いたのはここだった、のではないかと。じゃなきゃわざわざ勝者(タケミカヅチ)とライン結ばれないはずだと思うし。にしてはタケミナカタって土着臭が濃くて素敵です。諏訪の土地の神様(きっとタケミナカタとは別概念だったのではと思う)はとても力があったんじゃないかな。独特の空気を持つ場所ってきっと強い力がその空気を護ってきたから持っていられたんだろうし。そういう背景があって、善光寺の秘仏はきっと強い力を持っていて、それが何かを覆してしまうくらいであって、だから一般公開されていないとか、色々尾ひれとか背びれとかついてくるんじゃないかな、と。嗚呼なんという自分さえわかっていればいいという書き方と内容なんだ(笑)もう一度読み直したいのでもうしばらく借りていたいと思います。すみません。

■イムリ
imuri
http://www.amazon.co.jp/dp/4757736363
漫画の趣味が合う友達というのは重要です。とっても重要です。大切な事なので二度言いました。
彼女から紹介される漫画で(全てを読んでいるわけではないけど)ハズレは今までありませんでした。
以前教えてもらって、細々と(といいつつ3巻が明日届く予定というまだまだ先は長い感じですが)だけどいずれ連載に追いつきたいと思っている漫画がこれ。
最初の設定なんかを覚えるのがしんどいけど、そのあとは壮大だからーというその設定の綿密さが素晴らしい。というか、ここがちゃんと出来上がっていないと話がぼやけてしまうと思うのよね。「ローゼンメイデン」がその最たるものだと思うんだけど、1巻読んでその先に広がっていくであろう物語に非常に期待しました。絵柄が昭和臭漂う感じもステキ。楽しみです。

■モオツァルト・無常という事
kobayashihideo
http://www.amazon.co.jp/dp/4101007047
私のバイブル「孤独のチカラ」内で著者の斉藤孝先生が小林英雄氏に触れていたのでずいぶん前から読みたかったんだけどきっかけがなく。今回思うところあってこの本を手にしたんだけど、なぜもっと早く読まなかったんだろうと非常に後悔しました。表題の「モオツァルト」にあるとおりモーツァルトについて書かれていまして、そのモーツァルトに対する愛というか、いや愛じゃないかもしれない…なんだ、糧か、も、違う気がするけど、そういった得も言われぬ感情がもどかしくなく、美しい文章で書かれておりました。
そうなんです、とにかく書かれている文章が美しいんです。紙面がキラキラと光彩を放つように、その単語ひとつひとつが繋がる事でこれほどまでに輝くものなのか…とため息がでるほどでした。初めて高村薫の小説を読んだ時のあの機械油の匂い立つような、荒削りの金属の鈍い光というか、そういった文章にまさに貫かれたのですが、その感動をまた味わえるとは。例えるなら、真珠の1連のネックレス。決して華美じゃないのに、なぜここまで美しいのだろう。それはきっと大きく不変な魂のようなものが象られているからなのかもしれない。
モオツァルトは去年モツレクを歌う前に読みたかった。レクイエムについてのくだりはさほど多くはなかったけど、映画アマデウスでのモーツァルトだけしか知らなかったので、モオツァルトに書かれている裸のモーツアルトをもう少し知ってからあの曲たちに触れたかった。
で、更に西行という歌人についても知る事が出来たわけで、その寒々としながらも風になびく髪に微笑むような歌に(坊さんなんで髪の毛はなかっただろうけど)感銘を受けてしまって嗚呼もう奥坂なんて名前で詠んできた歌全部捨てたいとか思うほどで、この衝撃も穂村弘氏以来でもうほんとに厭。出直します。

**************

先日、台東区の第九が始まりました。
以前在籍していた合唱団の女性も受かったとの事で一緒に初練習に参加。
第九は今年で4年目ですが、初めて千葉先生以外の指導を受けました。久しぶりに歌う第九はやはり大変だけど楽しくて、rもたくさん巻いちゃって。FMホールじゃなくて、千葉先生じゃなくて、…なんて感傷に始まる前にはちょっと浸ってしまっていたんだけど、目指すところは変わらないのであるから、更に月曜からは墨田区の第九も始まるわけだし個人的に新しいステージにあがるようで。世間を狭くするのは他人でなく自分であること、物事に対して柔軟であること、そういうモノを忘れずに持ち、いいものをたくさん吸収して上手くなりたいと思います。

3週間後にヴェルディのレクイエムを歌う合唱団では、次の演奏会の曲が決まりました。
奇しくも以前在籍していた合唱団が年末に歌うケルビーニです。このお知らせをもらってその縁にびっくりしてヴェルディが終わったら退団する予定だったのを延期しようかとか楽譜もらわなきゃとか音取り音取り♪とか言ってましたが、色々想うところありまして今回は見送る事に。
だってさ、これで10月からケルビーニ始めてしまったら私本当に2月まで他何もできなくなっちゃうし。ホントはケルビーニ歌いたかったんだけど(という事に対しての「だったらウチ(以前在籍していた合唱団)で歌えばいいじゃん」という誘惑(笑)についても)色々悩みどころがあったので。悩むならやめようと。
涼しくなってまた季節の変わり目のアレルギーっぽい不調やらなんやらが噴出している最中で、これ以上自分のスケジュール圧迫するの身体によくなさそうだし。というわけで、2月末の国技館第九が終わったらまた改めて合唱団探しをしようと思います。