庚申信仰についての走り書き

庚申について
庚申信仰っていうのも妙見信仰に似通った経緯で色んな信仰が習合してしまって実態がわからなくなってしまった信仰のひとつと捉えております。
なので、色々探しているうちに「まぁそれも『アリっちゃーアリ』なんじゃないかなー」と思わせる要素があるようでして。
妙見と違って正確な信仰形態があったうえの習合というよりも「青面金剛信仰」と「十干の申から来た三猿の信仰(?)」の三つ巴という感覚が強い気がします。

そもそも庚申信仰というのは
(詳しい紹介はこっち→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9A%E7%94%B3%E4%BF%A1%E4%BB%B0
集まりであって、天帝を祀っているものではないというのがミソ。むしろ「夜通し起きてなきゃいけないイベント」という要素の方が強いため、信仰ではなく「講」という扱いになったのではないかとわたしは推測する。(非日常を意味する)ハレというわけではないけれど、普段しないことをみんなで集まって行うのはおそらくわくわくするものだと思う。それがましてや夜となればまた格別なのでは、と。

庚申につきものの青面金剛については、習合した時期・理由ともあまり明確になっていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%9D%A2%E9%87%91%E5%89%9B
三尸の虫にテケトーなことを言われないようにするために夜通し起きているというのは、三尸が信用ならんのもさておき自身も素行があまりよろしくないという認識の下での話なのではないだろうか。そこに強面の青面金剛が出てくるのがなにやら戒めのような気がしてならない。
そもそもの出発点が「三尸の虫を押さえる」というところなのであれば、庚申塚や講はわからなくもなく、「待ち」というのは「夜が明けるのを待つ」というところも含めての「待ち」という表現もアリだと思っているのだが、今回あえてこんなにぐちぐち書いたかというと、「庚申祓い」という不思議な言葉を知ってしまったからでして。
ここまで読んだらだいたいにしてこの「講」がどういう機能だったのかわかると思うんだけど。
「祓(はらえ)」というのは「穢れの除去」という意味合いであって、悪いことがあったりした場合の代わりに(その悪いことを持って)去ってもらう行為だったりモノだったりを祓うという。と思う。
庚申待ちの中でケガレに相当するのって三尸?と思ったんだけど、こいつは天帝の使いで庚申の日に天帝へ自分が入っていた身体の持ち主(人間)の悪さを報告するという、人間の使いでなく天帝の使いなのでケガレではないはず。そうすると残るのは三尸が入っていた人間になるわけなんだけど、わざわざ自分をケガレ扱いする?という疑問からそれも在り得ず。
ひとつ考えられるのは、三尸が天帝へ密告しに行く際の「悪事」を「祓う」ということ。
実際の悪事かもしれんし、三尸の捏造かもしれんし、とにかく天帝にバレたくない悪事はなくなってもらわないと困るわけなので、それは祓ってもいいのではないかと思ったりする。言葉の意味と庚申信仰の由来を考えると。ちょっと苦しい気もしなくもないけど。ここで祓うという言葉にちと違和感を感じるのはわたしだけでないはず。

南房総市千倉町瀬戸には今でもお庚申様という行事が続けられています。
http://www11.plala.or.jp/shimam/custom/kousin.html
実際まだやってるところあるのね。すごい。
で、なんでこのサイトを貼ったかというと、「お庚申様」という表現にひっかかったため。

庚申(かのえさる、こうしん)とは、干支(かんし、えと)、すなわち十干・十二支の60通りある組み合わせのうちの一つである。

という「組み合わせのひとつ」なのに「お」「様」がつくというね、ファミレス敬語のような状態。
そこでおそらく「祓え」の根拠が見えたような気がした。
上記わたしの「ばれたくない悪事を排除したい」ということが「ファミレス敬語的に過剰且つ意味を持たない単語」となってしまったのではないか、と。
そして「庚申の祓え」という行事が行われる地域に元々あったケガレを祓う儀式が庚申信仰と習合してしまったしまったのではないか。
そうするとケガレが存在しない庚申講という行事にケガレが発生し祓う儀式も行われるようになるのでは。