「七つの子」

指導者という仕事の難しさと感動を実感しました。

先日の台東区第九の練習はピアニストさんが遅れるとの事で合唱指導の先生は「この歌を発声代わりに歌いましょう」とピアノに向かいました。
タイトルの「七つの子」です。
最後まで歌ってから、先生はおもむろに立ち上がって歌の解説を始めました。
この歌の最大の疑問点「七つの子」って何が「七つ」だと思いますか?
個体数とか年齢とかいう答えが挙がるなか、先生は「『7』という数字に惹かれたのでは」というご自身(だけじゃないと思うけど)の説を話しました。
そして、この歌は野口雨情の詩で…と続きました。
私たちにとって野口雨情といえば練習初回で歌った「シャボン玉」の記憶がまだ新しく。あの爽やかな曲には、生まれて間もない子を亡くした雨情の悲しみが実はちりばめられていたという事を(知ってはいましたが)改めて知り、そしてその悲しみを歌う事で表現する難しさを教わりました。
という経緯があったため、雨情という名前が出ただけでこの七つの子は途端に単なるカラスの歌でなくなってしまいました。

日本語の歌(短歌も含め)の難しさは今に始まった事ではないけれど、向き合った瞬間からその上辺しか知らなかった浅い私にとても重くのしかかります。
雨情の詩の全てに子を失った悲しみが込められているわけではないけれど、単純な表面的な景色を歌っているような詩でもそこから少しだけ「知ろう」とすればその詩を描いた(あえてこっちの字をあてます)時の本人の感情が透けたりむき出しだったりしていて、それを知らずにわかったような顔をするのは全くの間違いだと私は思います。

ひとしきり七つの子の歌を先生の指導の元、まんまるのカラスの瞳を思い浮かべて歌い終わりました。
なぜか私は胸がいっぱいで、きっともう2回くらい指摘されて歌い直したりしていたら、泣いていたかもしれません。
七つの子が待ってる、最初に問いかけたカラスって実は雨情自身なんじゃないかと思ったりして。かわいい子どもに早く会いたいんだよ、ってどこかに訴えていたのかもしれないとか、そんな風に思いまして。

少しのヒントから、もう生涯この七つの子を歌う時はこの悲しみがつきまとうのではないかと思うほどの情報と感情と技法を得ました。
たった「発声代わりの歌」について。
日本語の歌詞の歌って本当に歌うのが難しいんです。ほとんどが日本人で日本語を話すお客様に対し日本語で歌うのはごまかしがきかないから。
エテルナの千葉先生は何度も詩を朗読させ、その意味をみんなで考えて歌う事をベースとしていました。
フランス語のリエゾンよりも繊細かつ高度な表現力を求められるものだったのです。というのを七つの子を通して実感しました。
やっつけで歌えるようなものじゃなかった、って事も。
だからこそ難しくて、それでいて(巧く表現できれば)楽しいわけで。

…意味深なフェイドアウトをあえて。