大橋可也&ダンサーズ「テンペスト」プレイベント「あらしの前に」を観てきました

呑む約束ブッチしてまでも書かなきゃと思ったので。
本当になんだか怖くて仕方なかったのでした。

あらしの前に
http://dancehardcore.com/topics_tempest_preevent.html

大橋さんの舞台はおそらく2012年?辺りから観ているはずなんだけど(ディスコグラフィにphantomsが載っていないのでおぼろげ)、こんなに怖いと思ったのは初めてでした。そもそも観ていてアルファ波が出るようなダンスではないんだけど、そしていつも確固たる不安というか得体の知れない怪物のような何かを持ち帰らされて帰宅途中うんうん唸りながら普段噛みしめる事のない感覚を必死に咀嚼するんだけど、今回は本当にひどかった(褒め言葉です、念のため)。嗚呼もうこんなに怖い思いは久しくしていないわよ。

今回は11月公演の「テンペスト」のプレイベントとしてトークと(おそらく)抜粋というか、プロローグというか、そういった内容でした。
私は舞台芸術に1ミリも接点がなく予備知識もないまま大橋可也の世界しか知らずにこの数年過ごしていてダンスと言えばダンサーズの肉体が表現する不安とか恐怖のようなどろっとした何かしか知らないのですが、「舞台を観る」という事が演者とどう関わっているのか、のような事を初めて考えさせられまして。
正直漠然と(いや、ほとんどわからず)観ているのできっと「あの最前の女クチ開いてたぜ」とか打ち上げで笑われてたりしてるんだと思うのですが、そういった私も「観る人がいない舞台は独りでやればいい」という言葉から初めて「私(観客)が在っての舞台(演者)」だったんだと気づかされまして。
ダンサーズ(今日は特に大橋さんにだったけど)に毎回貫かれて息も絶え絶えで帰る私は、ダンサーズにとって「表現者として貫いてあげる存在」として必要だったんだなーと思いました。
この気付きって色んな舞台や演奏(だけじゃなく表現された全てのもの、でもいいはず)にとっても通じる事であって、私は漠然と「お客様がお金払ってるから」ってちゃんと歌わなきゃという「頭」があったんだけど(もちろんそれだけじゃないけど)、観る(聴く)人がどう受け止めるか、って私の心が知らなかったなんて、今まで何をしていたんだという。ああいかん。表現する者として、以前大橋さんが仰っていた「何か持ち帰ってくれればいいんです」というその言葉がまさにやっと体感としてあの席で私に沁みたようでした。
感動なんてうすっぺらい言葉じゃない、良いにしろ悪いにしろ揺り動かすような、その人が表現者から受け取ってしまった感覚でどうにもならなくなってしまうような、今の私のように呑みに行かずに(呑んでますが)この「怖さ」を自分の言葉にしなきゃと思わせるような、表現者ってそういうもので相手の身体を動けなくさせなくてはいけないような気がしました。

そして今回初めて大橋さんご自身のパフォーマンスも観ることができまして。
毎回ダンサーズの肉体にビジュアルも圧倒されるのですが(とにかく動きがすごいんだ…)、先のトークでご自身の年齢を仰っていたあとだったので余計感動しました(笑)
私の周りの大橋さん同年代であの腹筋持ってる人は皆無。見た事ない人の事も勝手に決めつけるけど(貴方ですよ!ビール片手の!)、あんな筋力ある人いない。職業柄だと思うけど、改めてその身体にも感動しました。きっと私クチ開けて観てたと思う。ごめんなさい。本当にその迫力(嗚呼こんなぺらい言い回しじゃない言葉が欲しい)に射抜かれました。ぼんやりと濁った感覚でなく、今日は本当に恐怖でした。

なんでだろうね。
きっとあの空間には聞こえない言葉が充満していたんだろうね。

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あ!そして私前半ずっと釘づけだったのが、大谷能生さんが駆使していた楽器?装置?何ていえばいいの??
まるでジミーペイジが使っていたテルミンを彷彿してすごく面白そうでした。私もあれやってみたい(とか言う)。
なんか声帯の代わり?のようで興味深かった。それ見ながら思ったのが、機械が作る音って、動物が発する声と対極に在るのかなぁと。そのちょうど間にあるのが楽器の音で。うーん、巧く言えないけど、機械はあくまでも音であって、声ではないよね、という。感情というか有機物…違うな、意識とか幽体とかそういった「ナマモノ」がないもんね。楽器はそのナマモノの音を拡張する装置であって。弾くにしろ吹くにしろ叩くにしろ。楽器には色々思いは乗せられるけど、機械には乗せようがないしね。まぁ機械機械ってどういうものの話をしているんだという私。