駄文を積む。【もののあはれ】

続くかはわからないシリーズを立ち上げてみました。
第一弾は「もののあはれ」。

ふと、「憐れ(あわれ)」ではない「あはれ」って体感できるもんなのかと仕事中に思ったところから始まってしまったとりとめもない考えをできるだけまとめてみたいなと思って。
もの、の、あはれ。
ワビサビとかそういった日本独自の感傷というかそんなもんなのかもしれないと思ったんだけど、ニュアンスとして適切な言葉が思いつかず諸行無常とか盛者必衰の理を表すとかそういったことかと思って徐に母に「『もののあはれ』てなんぞ」とメールしてみたら、
「花が咲く、散るけど種ができる 大きな繰り返しの中で移ろっていく中に感じ取るものじゃないかしら」
と。
さすが我が母。おそらく夕餉準備中だと思われる時間帯にこのようなしびれる回答をありがとう。
なんて返事をしながらついでにWikipediaも見てみたりしたんだけど。
本居宣長が色々解釈していたのがずらっと並んでいたんだけど、読んでみてどうもしっくりくるものでなく。

折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁である。苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念であるとされている。(出典:Wikipedia もののあはれ

こんな風にまとめてあったんだけど、もしかしたらそもそもまとめるものではないのかもしれないと思ったりして。
風を見て、雨に耳をすまし、土を匂い、命に触れる…そんなものから「得る」ものが「あはれ」なのかなぁとか。
キレイな言葉で表現しようとするといくらでも飾れるけど、きっとそんなお座成りな言葉じゃないと思ったりして。母の解釈からすると、永久のなかに存在する変化?とも違うなぁ…何を以て「もの」として、何が「あはれ」なんだろうか。
どうも字面からして矛盾が透けているようなんだけど、きっとそれを孕んだ「もの」が「あはれ」なのか、とかも思ってみたんだけど、じゃああはれって矛なのか盾なのかみたいな話になってしまいそうでそれもまた解とは言えないと思い。

こうやって色々手を止めながら(実は結構時間かけて書いていたりしてます)物思いに耽りながら文章を書くことが「あはれ」なのかもしれないけれど、パソコンに向かってキーボード叩くのは全然情緒もあはれもないのできっと違うと思う訳で。
解のないものへ向かう…解を得る事よりもその過程を愉しめる方が大事なのかな。
卑弥呼の墓が九州か奈良かってわかってしまうよりもそんな喧々諤々を見る楽しさがあるように、「もののあはれ」もこんなブログで回答されるような浅い言葉でない方が探る楽しさがあると思うしね。

まったくとりとめのない文章になってしまいましてからに。