小山田二郎展へ行ってきました。

数年前に初めて観たのですが…どうしてもその時の情報がみつからず。
ステーションミュージアムって行った記憶ないんだけど、そこの展示しか見つからないのよね。
なんでだろう…。なぞだ。確か図録も買ったはずなんだけどな、それもどこにいっちゃったんだろう。

▼府中市美術館 生誕100年 小山田二郎展
https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/kikakuten/kikakuitiran/oyamadajiro.html

どうでもいい前置きは置いておいて、美術展は今年初のようでした。
今年はボッティチェリやグエルチーノだったり観たい展示がこの後控えているのですが、魂を平手で押しつぶされるような感覚に囚われてしまう小山田二郎の方がより楽しみでした。
私にとって絵画というのは自分が筆を握っていた手前その画家の精神が透けて見えるものなので、どうしても自分の奥底に眠らせてある昏いものと同類のものを感じてしまうと勝手に結びつきを見出してしまうようでして。ブッフェ然り二郎然り、どんなに明るい色を乗せたとしても心の底に横たわる漆黒の亡霊の背中が見えてしまっていて、その背中を私はどうしてもうっとりと撫でまわしたくなったり。誰にも仄暗い感情や精神はあると思っていて、普段はそういうのはないものとして隠しているけどあくまでもそれは隠すだけであって、それを否定してしまったら、対極にあるはずの「外面」もなくなるような気がして。そしてそういう2つの面がなくなったらきっと人は人じゃないと思うんです。対になる光と闇みたいなものを併せ持って人となるのではないかと。だから私は自分と対峙するためにこういうあえて底の部分を見に行くのかもしれません。

小山田二郎のバイオグラフィーはこちらから。

今回きっと初めて観た絵がありました。
(なんせホラ、いつの展示だったか図録もどっかやっちゃってるくらいだからその絵ももしかしたら観てるかもなんだけど)
朝日新聞の記事(有料だそうなので面倒なので画像の部分だけリンク貼っておきます。「小山田二郎 手」)この絵は代表作(っていっていいの?)「ピエタ」よりも好きになってしまいました。美術展に行くと絵葉書は必ず母に送るために1枚だけでも買うのですが、今回展示閲覧中にこの節くれだち哀しみに溺れた肌の「手」を前にしてずっと肺気腫になったかのように息苦しく涙が漏れそうになるのを必死でこらえていたのですが、その時に「母に送る葉書はこれ。絶対これ。なかったら送らない」と決めていました。なので見つけた時には思わずガッツポーズをしてしまったほど(笑)
この手の…なんだろう…力の根源ってきっとネガティブなものだと思うんだけど、それは絶対すごく透明度の高い澄んだ湖の底の悪意のような、薄くくだらないマイナス要素でないと思います。ひどく静かなんだけど、熱い思いがその指に現れているようで。手のひらにある穴は杭の痕を彷彿とするんだけど、穴というよりも目のようにも見えて、なんだかひどく居心地が悪く(見透かされているようで)落ち着かない気分にもなり。
本当にここからしばらく動けませんでした。

画家の転機って結構その後の作品に影響大きかったりするんだけど、小山田二郎も然りでやはり失踪後の作品は鬱屈したものの濃度がだいぶ減ったようで同じようなパターンであっても何か滑稽に見えるところもあったりで(特に子どもの絵はそれが顕著)病気後の多賀新氏の絵柄が大きく変わってしまったのと同じように少し寂しくもありました。
小山田二郎はきっと幸せであってはいけない人だったんじゃないかなぁとか実際自分がそんな事言われたら厭だけど作品から見える二郎についてはそのカンバスいっぱいにひっかかれたナイフの痕と同じく昏いものを撒いていて欲しかったと思うのでして。そういう評価はきっと辛いでしょうけれど。私にとってはピエタの邪悪と称してもいいほど不気味なマリアだったり今回感動した「手」だったりなのでして。
こうやって自分の中のあまり出したくない感情が一番しっくりくるような絵を観ていることを「楽しい」と評価するのは語弊があるんだけど、それでもやはり筆遣いやナイフの跡、伸びてしまったカンバスなんかを見ていると美術館へは足を運ぶべきなんだなーと思います。
今回1つだけ残念だったのがガラスをかけてある展示物、反射が酷くて絵を覗き込むと自分しか見えなくなったりして。ライティングなんとかならんのかなぁ。