覚書のような、そんな感じで。

合唱で吉野弘作詞の「みずすまし」という歌を歌いました。

歌詞はこれです。みずすまし
(歌詞をtweetするとバッキンとか聞いたのでリンクしてみた)

詩人は様々なモノを擬人化するようで。
雪の日にという詩は雪が思ってる以上に白く純潔な印象もたれててこまるわーって言ってるし。
で、このみずすましなんだけど、リンク先見ていただいてその詩を読んでいただくとわかると思いますが、
みずすましだけでなく水までもが感情があったりとか。
ちょっと落語の世界に近い気がするのですがいいのでしょうか。
なんて斜め上から書いてますが、結構練習では真剣に「みずすましに対する水の気持ち」を考えました。
みずすましの骸を抱きとって深い水底へ連れていく「水」。
その「水」は生きていた時のみずすましにはそうやって抱きとめる優しさを知らせないんです。
さて、それはなぜでしょう?

死というのはおそらく「未知なる世界」であって、おそらく「天国のようなところ」であって、「ここちよい」んだと思います。
多分死ぬ瞬間が、まさに死ぬほどつらいだけなんでしょうね。
そういう観点から、みずすましに死と水の優しさを水が教えなかったのは、そういう甘美な世界として死を妄想するべきでない、
日常という分厚く反発する厳しい現実から目を背けないように知らせるべきでない、ということなのかなぁ、と思いまして。

それとね。(これは先生の話を聞いてないとつながっていかない話なのかなぁ)

みずすましの骸を「優しく抱きとめて」というところを「遺体=神聖なるもの」と仰っていたのに実は違和感感じました。
死って民俗学では「穢れ」だったんですね、大雑把にいうと。
(神社で葬式しないのは穢れを持ち込まないためという理由もあったり)
なので先生が例えのお話をされていた時も、今の感覚ではご遺体という表記にもなんの疑問も持たないし清拭することも故人もさることながら家族にとっても大事なことだとは思うんだけど、「お清め塩」ってじゃあなんで使うの?って思ったりしたんですね。

だからみずすましが死んで骸となった時の水の優しさって、じゃあいったい擬人化して考えるとなんなんだろう?と思いまして。
水を人として捉えるの、ちょっとわからないんです。

普段、コードのことばっか考えているので、実は「解のない解」ってすごく気持ちがいいんです。
ヒトに戻ったみたいで。普段は脳みそが半分ゼロとイチで動いているんだと思います。
でも、こうやって歌詞を考え身体使って歌を歌うと、DNAっつーか細胞っつーか、そういうのが息を吹き返すんでしょうね。